創業者の想い「忘れ得ぬ母の教え」

◌ 学習研究社を立ち上げた
       創業者・古岡秀人

 学研教室の「学研」は、旧社名・学習研究社の略称です。「学研」の歴史は、1946年、第二次世界大戦後の日本で学習研究社を創業した古岡秀人から始まります。

 古岡秀人は、1908年、炭鉱で働いていた父・太郎吉、母・ナヲの第三子として、福岡県北九州市小倉に生まれました。太郎吉は筑豊炭田で現場監督として働いていましたが、秀人が5歳のとき、炭鉱内の落盤事故で亡くなります。一家の大黒柱を失ったナヲは、7歳、5歳、1歳の子どもを抱えて、炭鉱で働き始めました。

 ナヲは、石炭を選別する仕事で、文字通り身を粉にして働き一家を支えました。朝から晩まで、素手に近い状態で石炭を触る母の手は、黒くがさがさに荒れていたそうです。体の芯まで冷え切る真冬の夜、アカギレだらけの手に、真っ赤に焼いた火箸で黒い膏薬を塗りこむ母の姿を寝床からそっと見て、秀人は何度も涙しました。

 その母の口ぐせが「先生になれ」だったのです。



 その母が、口ぐせのように私をさとした言葉 ── それは、「おまえは先生になってくれ」でした。世の中では名誉も大事。お金も大事。でも、それよりも大事なのは教育だ ── これが母の信念でした。母は、教育という言葉は知りませんでしたが、「先生になれ、先生になれ」を繰り返し、小さな私に教育の大事さを説いたのです。

 (1980年4月・古岡秀人「教室開設にあたって」より、原文ママ)

◌ 荒廃した日本を復興するには
  子どもたちの教育しかない!


 中学に行けなかった秀人は、「中学講義録」という6冊の本をむさぼり読んで勉強しました。表紙がボロボロになるまで読み続けたといいます。そうして秀人は、独学で福岡県立小倉師範学校に入学し、卒業した年には文検(旧制の文部省教員検定試験)の予備試験を突破。その翌年には、「国漢八年」といわれるほど難関の文部省中等学校教員検定試験で、国語と漢文の両方に合格しました。

 昼は働き、夜は勉強。ややもすれば消えそうになる秀人の勉学への情熱をかきたてたのは、「おまえは先生になってくれ」という母の言葉だったのです。

 福岡や横浜で小学校の先生として働いた秀人は、「教育」という仕事の重さと役割を実感します。その後、いくつかの出版社勤務を経て、第二次世界大戦後の1946年、教育出版社である「学習研究社」を創業しました。

 秀人の心にあったのは、敗戦後、焼け野原となった日本の焦土を見て痛切に感じた「戦後の復興は教育をおいてほかならない」という強い信念でした。





 日本は戦後、あの灰燼の中から、経済大国として、みごとに立ち直ることができました。この結果は、いろいろな見方があるでしょうが、アメリカの経済学者ドラッカー氏の言葉によれば、いつにかかって(注:ひとえに) ”教育“ という言葉に尽きるということになります。

 日本ではご存知のように江戸時代から教育に熱心で、寺子屋というものが、各地にたくさんありました。(中略)教育というものが、いかに大事であるということが大衆の中に浸透し、子どもを寺子屋に通わせ、”読み・書き・そろばん“というものを習わせました。

 明治になって学制が発布されたとき、きわめてスムーズに移行できたのも、このように江戸時代からつちかわれた子弟に対する教育熱が、成功に導いたといっても過言ではありません。以後、今日につながる日本の近代化は、国民全体の教育水準の高さによってもたらされたものといえます。

 (1980年4月・古岡秀人「教室開設にあたって」より、原文ママ)

◌ 慈愛の心を惜しみなく
  より多くの子どもたちのために


 秀人は、教材が不足していた戦後、小学生のための学習雑誌『学習』と『科学』を創刊。たちまち大人気となりました。その後、学習研究社は、保健体育や道徳の教科書のほか、優れた学習参考書や問題集を数多く出版し、日本の教育を支えました。

 そして、1980年、学研教室を創設したのです。秀人の心の奥底にあったのは「先生になれ」という祈りにも似た母の言葉だったのではないでしょうか。

 「子どもたちに学ぶ喜びを」
 「子どもたちに自信を」
 「子どもたちに生きる力を」

という学研教室の基本理念には、古岡秀人の「教育」に対する、並々ならぬ熱い想いが込められているのです。






参考文献:
 『望洋 古岡秀人伝』、『学研教室37年のあゆみ』